ボエティウス『音楽教程』

ここからのページでは中世音楽を語る上で避けては通れない書物,ボエティウス Boethius (480-524年)の『音楽教程 De institutione musica』(510年前後)を取り上げたいと思います. この書物は中世を通じて音楽を学ぶ全ての者にとって最も権威ある教科書として,いわば音楽家 musicus になるための必読書として読まれた書物で,中世の音楽的思考の基盤となる書物と言ってよいものです. ただこの書は難解な書物としても知られ,原文は6世紀のローマ人の手によるラテン語ということで,なかなか門外漢には手の出しにくいものでした.

ところが,大変ありがたいことに最近この書物の伊藤友計さんによる邦訳が出版され,日本人にとってのこの書物へのアクセスのハードルは一気に下がりました.

とはいうものの,日本語で読めるようになったからと言って,この本の内容的なある種の「難解さ」が減るわけではありません. 何しろ1500年前の書物ですから,物事の捉え方や表現の仕方が現代とは大きくかけ離れています.

そこでここからのページでは,この本の解説というよりは(それは私の手にあまります),内容をきちんと理解するための覚書といったものを提示したいと考えています. 特に第二,三巻でなされる数比に関するやや踏み込んだ数学的な議論について, それらは内容的には高校レベルまで(たかだか数学I程度)ではあるのですが,記述・論述の仕方が現代とは大きく異なるため理解が困難になりそうなところが多く見られます. そういった部分を現代人により理解しやすい形に,「その箇所には要するに何が書いてあるのか」がわかるようなものを目指したいと思います. 一応これだけを読んでも原著の大まかな内容はフォローできるようにしたいと思いますが,原著を読みつつ適宜こちらを参照してもらった方が意味があるんじゃないかと思います.

さてこの『音楽教程』,現存するのは5巻までで,5巻も目次のみを残して途中から失われています. 中世の大学で実際に学ばれていたのはこの本の全体ではなく最初の二巻のみであったとのことですので(金澤正剛『中世音楽の精神史』第1章注5),まずは最初の二巻を取り上げることにしたいと思います. 第一巻は概論的な内容で読み進めるのに困難はないと思いますので,まず多少厄介な部分のある第二巻からやっていきたいと思います.

やり方としては,章ごとに内容を要約して,必要があれば内容の補足や,説明を書き加えるということをしたいと思います. 要約パートは普通に黒字で,直接本文にない補足部分や説明パートは青字で書くことにします. ただ要約パートとそれ以外の部分との区別はしばしば曖昧で,要約のレベルも,本文の再現性の高いものから,かなり自由にまとめたものまで章によってまちまちです. また訳文を用いるときは,前述の伊藤友計さんによる邦訳から引用していることが多いです.

暫定版まえせつ

さて,現代人が予備知識なしにこの『音楽教程』を読み始めたとすると,音楽の具体的な話がちっとも出てこないで,数比の議論が延々と続くのに面食らうかもしれません. それもそのはずで,ボエティウスが論じている音楽とは,現代われわれが思い描く音楽とは一線を画する,「数の学問」としての音楽だからです.

中世において,大学,あるいは教会や宮廷の付属学校の学生が必ず修得すべき教養科目は自由学芸( アルテス・リベラーレス artes liberales)の名のもとにまとめられ,7つの基礎科目からなっていました. これは今日のリベラル・アーツの前身に当たるものですが, その7科目は下位三科目(トリヴィウム trivium)の文法,修辞学,弁証法と,上位四科目(クワドリヴィウム quadrivium)の算術,幾何学,天文学,音楽からなっていました. そして算術,幾何学,天文学,音楽の4つの数学的学問をひとまとめにしてクワドリヴィウムと呼んだのはボエティウスが最初だと言われています.

それにしても音楽が数の学問に含まれるというのはどういうことでしょう.

ピュタゴラスは「万物は数である」との認識を自身の哲学の根底に据え,この世界のありようを「数」において捉えようとしました. この思想において重要な役割を果たすのが,彼の音楽上の発見です. その発見とは,協和する響きが 2:1 や 3:2 などの簡単な整数の比で表されるというものでした. このことはピュタゴラスに深い感銘を与えたとされ,数による理解は宇宙全体にまで広げられます. アリストテレスは,ピュタゴラスとその継承者たちが「…さらに音階の属性や比も数で表されるのを認めたので,…数の構成要素をすべての存在の構成要素であると判断し,天界全体をも音階であり数であると考えた。」(『形而上学』第一巻五章,985b以下)と記しています. ここから天界の「音階」をも数の関係によって理解しようとする「数の学問」としての音楽 musica が成立し,発展していったと考えることができそうです.

したがって『音楽教程』で論じられる音楽は,作曲され演奏される現実的な芸術としての音楽というよりは,宇宙の根本原理としての数の理論そのものということになります. 芸術としての音楽は,そのような根本原理から派生した現象の一つと理解されたのでした.

このような考え方は中世に入り,すべてのことがキリスト教を中心に回るようになっても継承されました.すなわち,神の創造したこの素晴らしい宇宙は調和によって作られており,その調和の根本原理は数の関係(比)の上に成り立っているのだから,「数の学問」としての音楽を含むクワドリヴィウムを学ぶことで神の御わざに近づくことができると考えられたようです.

そしてボエティウスの『音楽教程』は,古代の思想を中世に伝え広めるのに決定的に重要な役割を担った書物だとも言えます.

第一巻の要約,特に音程と数比について

とりあえず第二巻から始めることにしたので,第二巻を理解するのに必要な第一巻の内容,特にピュタゴラスの発見した協和と数比の関係をざっとまとめておくことにします.

現代の音響学的理解では440ヘルツの A4 の音に対して,その1オクターヴ上の音は2倍の周波数を持つ880ヘルツの A5 です. さらにA4の純正5度上の音は,440ヘルツの3/2倍の周波数660ヘルツのE5です. このような音程と比との関係,オクターブは2倍,5度は $3:2$ という関係はピュタゴラスが発見したのだと言われています. もちろん,ピュタゴラスの時代には周波数という量もそれを測定する技術もありませんでしたが,オクターヴや5度の協和が $2:1$ や $3:2$ という整数比と関係づけられることを最初に洞察したのがピュタゴラスということになると思います.

※ピュタゴラスは通りがかった鍛冶屋でいくつかの槌が協和する音を発しているのを聞き,それら槌の重量の比から協和の比を見出したという伝説があります. この伝説は『音楽教程』の第一巻に活写されていますが,フィクションと考えられます. なぜなら槌の重量と音高の関係は単純ではないからです. そもそも音を発していたのは槌だったのかということもあります. 実際には『音楽教程』にも言及がありますが,弦の長さを分割することによって最初から考察がなされたんじゃないかというのがありそうなことです.

さて,第一巻16章では音程と数比との関係が次のようにまとめられています.

このうちオクターヴ,5度,4度のみが協和とみなされ,全音は協和とはみなされません.

上の比から様々な音程の比が導きだされます.例えば $1:2:3$ という3つの数の比を考えてみます. $1$ の音に対して $2$ の音は $1$ のオクターヴ上の音です. $2$ に対して $3$ は $2$ の5度上の音です. すると $1$ の音に対して $3$ の音は $1$ の1オクターヴ+5度上の音ということになり,1オクターヴ+5度という音程は $3:1$ という数比で表されることになります.

同様に $2:3:4$ という比を考えると,$2:3$ は5度,$3:4$ は4度,$2:4=1:2$ はオクターヴなので,5度+4度=オクターヴ という関係が得られます.

では全音二つはどんな比であらわされるでしょうか.

$8:9$ を二回続ければよいので,一時的に整数からはみ出すのを厭わず強引にやると \[ \displaystyle 8:9:\left(9\times\frac98\right). \] 全体に $8$ をかけると整数比になり, \[ (8\times 8):(9\times 8):\left(9\times\frac98\right)\times8 = 64:72:81. \] つまり二全音は $81:64$ という比であらわされます.

一般に $a:b$ という比で表される音程と $c:d$ という比で表される音程を「足した」音程は,$ac:bd$ という比で表されます.

$a:b$ という比に $\displaystyle\frac{a}b$ という分数(比の値)を対応させて考えた方が考えやすいかもしれません.このとき $a:b$ という音程と $c:d$ というの「和」は分数の掛け算 \[ \frac{a}{b}\frac{c}{d}=\frac{ac}{bd} \] に対応します.

では5度から4度を「引いた」音程は何でしょうか.

5度の $2:3$ の間に($2$ に対して) $x$ で表される音を挟みます. \[ 2:x:3. \] $2:x$ が 4度になるように $x$ を取ると,$x:3$ が 5度と 4度の「差」になります. $2:x$ が 4度になるには $\displaystyle 2:\left(2\times\frac43\right)=3:4$ なので $\displaystyle x=\frac83$. したがって \[ \frac83:3 = 8:9 \] が 5度と 4度の「差」です.すなわち 5度と 4度の「差」は全音です.

一般に $a:b$ という比で表される音程から $c:d$ という比で表される音程を「引いた」音程は,$ad:bc$ という比で表されます.

分数の言葉では,$a:b$ の音程と $c:d$ の音程の「差」は分数の割り算 \[ \frac{a/b}{c/d} = \frac{ad}{bc} \] に対応します.

さて,ピュタゴラスからボエティウスにいたる音楽理論において,半音は4度から2全音を引いた音程と定義されます.

これはかなり不正確な言い方です. 全音に満たない様々な音程が半音とよばれており,場合によってはそれぞれの半音に固有の名前をつけて区別していますが,4度から2全音を引いた半音が実際の全音階の中に現れる半音なので特別視されます.

前と同様に考えると4度 $3:4$ の間に $3$ に対して2全音をなす $x$ を挟み $3:x:4$ とすると,$x:4$ が半音を表す比となります.実際にやってみると \[ 3:\left(3\times\frac{81}{64}\right):4=192:243:256. \] したがって,4度から2全音を引いた半音は $256:243$ の比で表されます.

この半音を二つ合わせても全音には足りません. なぜなら,二半音は $256^2:243^2=65536:59049$ となりますが, \[ 59049\times\frac98 = 66430.125>65536 \] だからです.

さて,第一巻では以上のような音程と数比の議論の後に音階論が展開されますが,これについては別のところにざっとまとめているので,ここでは省略します.

目次

参考文献

「第二巻 1〜11章」にすすむ

First submitted: 02/12/2024